戻る この数年前に作った動画のページは何のコメントも載せずにやってきました。ひとつにはボクが何かを語るより、倉本聰や田中邦衛の語りのほうが遥かに重みとリアリティがあり、彼らの語りをそのまま聞いてもらえればそれだけで十二分だと思ったからです。 「北の国から」というテレビドラマは日本全国のあらゆる年齢層の視聴者を魅了した言ってみれば「国民的」テレビドラマです。 なぜこのドラマをあえてホームページに掲載したのか?と問われれば、単純明快に「好きだから」と言っても差し支えないと思います。しかし何が好きなの?とあえて問われれば、アメリカ文学を恥ずかしながら研究しているひとりの人間として言えることは、このドラマの大きな枠組み、つまり東京という大都会と富良野という自然との物理的なそして心理的な相克というものが心を捉えて放さないからなのです。 マサチューセッツ工科大学の先生をされている Leo Marx という著名な文学・社会研究者がおられます。 彼の論考に"Pastoralism in America"という労作があり、この論考の中で、Leo Marx は次のようなことを述べています。 The herdsman of the ancient Near East characteristically is a "liminal figure" who moves back and forth across the borderland between civilization and nature. Seen against the background of the wilderness, he appears to be a representative of a complex, hierarchical, urban society. His job is to protect his flock from such a menaces of nature as storms, drought, and predatory animals. Seen from the opposite vantage, however, against the background of the settled community with its ordered, sophisticated ways and its power, he appears to epitomize the virtures of a simple unworldly life disengaged from civilization and lived, as we now might say, "close to nature."("What Is Pastoralism" in Ideology and Classic American Literature, p.43) [訳] 古代中東の羊飼いは「閾の存在」なのだ。つまりは文明と自然の境目を行き来して存在しているという。 荒野という風景を背景として眺めれば、彼は複雑で階層的で都会的な社会の代表者として映る。 彼の仕事は羊の群れを嵐や干ばつそして襲ってくる動物などの脅威から守ることである。 全く反対側の立場から見れば、つまり秩序だった洗練された様式と権力を備えた定住したコミュティを背景にして見れば、 彼は文明とは隔たった素朴で世俗的な垢に染まっていない生活の美徳の縮図であり、今日私たちが言うような「自然に近い生活」をおくっている者なのである。 富良野に落ち着けない純の姿とは倉本聰が語るように、東京から富良野に移ってきたが、その生活に十全には溶け込めない倉本聰自身の気持ちを表していたとも言えるでしょう。つまり東京という文明と富良野という自然の間を行き来する「閾の存在」として彼は生きることになったとも言えるわけです。田中邦衛にも逆な意味で同様なことが言えるかもしれません。 こうした「閾の存在」(リミナル・フィギュアー)というある種特別な存在だからこそ見えてくる風景があり、それこそがこの「北の国から」という風景の基本的な枠組みを形作っているように思えてならないのです。 下に吉岡秀隆と尾崎豊の動画を載せました。「閾の存在」(ないしは「境目を行き来する存在」)として「北の国から」で演じた純くんこと吉岡隆明と歌手・尾崎豊の結びつきがなんであったのかを考えてもらいたかったからです。「I Love You」を歌う尾崎の姿にもボクはこの「閾の存在」の影を感じるのです。つまり少年の世界と大人の世界を行き来する「閾の存在」としての。こうした尾崎の姿は『ライ麦畑で捕まえて』のホールデンの姿にぴったりと重なって行くように思えてならないのはボクだけでしょうか? 吉岡秀隆が語る尾崎豊の死 尾崎豊「15年目のI Love You」 |