A  Catcher's  Page

『ライ麦畑でつかまえて』



僕のうちはニューヨークにあるんだけどセントラルパークの池のことを考えていたんだ。
セントラルパーク・サウス通りのそばにあるやつのことだよ。
僕はこんなことを思った。
僕がうちに帰るときにはあの池はもう凍りついてしまっているだろうか?
もしそうだとしたら、あそこにいたアヒルたちはみんなどこに行くんだろう。
誰かがトラックで乗りつけて、みんなを動物園とかそういうところに連れていくんだろうか。
それともアヒルたちは自分でどっかに飛んでいってしまうんだろうか?


(村上春樹訳 『キャッチャー イン ザ ライ』 (2章 p.25より))


この場面はこの小説の冒頭に近い2章でホールデンがペンシー・プレップスクールを退学になることが決まったあとに歴史の先生であるスペンサー先生宅を訪れ、彼のお説教を聞かされている時にふとセントラルパークのアヒル想い描く場面です。

なぜホールデンの脳裏をアヒルたちのことがかすめるのでしょうか?


この小説にはいろんな「糸」が絡み合っていますが、この「セントラルパークのアヒル」への想いが、ホールデンのありのままの姿と最もよく重なり合っているように思えて仕方ありません

写真はこのセントラルパーク・サウス通りのすぐ近くの池ですが、ちょっと見えにくいかもしれませんが、アヒルたちが夏の池を泳いでいました。不思議なことにこの池にしかアヒルはいませんでした。


外に出たとき、もうそんなに酔いを感じなかった。
しかしそれにしても、またやたらに冷え込んでいた。僕の歯はがちがちと音を立て始めた。どうやってもそれが止まらないんだ。
マディソン・アベニューまで歩いていって、そこでバスを待ちかけたんだ。というのは手持ちの金は尽きかけていて、タクシーに乗る余裕もなくなっていたからだ。でもバスに乗るような気分じゃなかった。
それにさ、そもそもこれから自分がどこに行こうとしているかもわからないんだぜ。で、何をしたかっていうと、公園に向かって歩いたんだ。
あの池のそばを通って、アヒルたちがなにをしているかチェックしてみようと思ったわけだ。
連中がまだそこにいるかどうかとかさ。
アヒルたちがまだそこにいるのかどうかも、まだ確かめてなかったんだよ。公園はそんなに遠くじゃなかったし、ほかに行くあてもなかったしね。
というか、今夜はどこで眠るかまだ決めていなかった。
だから僕は公園に足を向けた。疲れは全然感じなかったな。ただ心がずぶずぶに切ないだけだった。
(中略)
池はある部分は凍り、ある部分は凍っていなかった。
でもアヒルはただの一羽もいない。僕はそのろくでもない池のまわりをぐるっと一周してみた。
まったくの話、もうちょっとで池の中に落ちてしまうところだった。でもアヒルの姿は見あたらなかった。
(同書 20章 pp. 253-255)

シートン・ホテルのウィッカー・バーでかつての相談役であったルースに会い、散々に酔っぱらって深夜サリー・ヘイズに電話した後で、ホールデンがバーを出てアヒルをセントラル・パークに探しに行く場面です。
ルースに会っても、サリーに電話しても、彼の心に空いた空洞は埋まりません。ジェーン・ギャラファーに電話するつもりが何度も途中でやめてしまいます。なぜ?
せめてセントラルパーク・サウス通りに近い池にアヒルが居てくれれば、何かの安らぎが得られたのでしょうか?
「どこにもない場所」を探してクリスマス前の厳寒の中をひとり彷徨うホールデンの姿です。