「午前3時50分小さな死」─『遠い太鼓』より

2009年8月27日

長い小説を書くというのは、僕にとっては非常に特殊な行為であると言っていいと思う。どのような意味合いにおいても、それを日常的な行為と呼ぶことはできない。それは、たとえて言うならば、深い森の中にひとりぼっちで入りこんでいくようなものなのだ。地図も持たず、磁石もなく、食料さえ持たずに。樹木は壁のごとく密生し、巨大な枝が重なりあって空を被い隠す。そこにどのような動物が生息しているかも僕にはわからないのだ。
 
 だから長い小説を書いているとき、僕はいつも頭のどこかで死について考えている。

 普段はそんなことはまず考えない。死というものを切迫した可能性として日常的に捉えるのは- 30代後半の健康的な男性の大半がそうであるように - きわめて稀なことである。しかしいったん長い小説にとりかかると、僕の頭に中にはいやおうもなく死のイメージが形成されてしまう。そしてそのイメージは脳のまわりの皮膚にしっかりとこびりついてしまうのだ。僕はそのむず痒く、気障りな鉤爪の感触を感じつづけることになる。そしてその感触は小説の最後の1行を書きおえる瞬間まで、絶対に剥がれおちてはくれない。

 いつもそうだ。いつも同じだ。小説を書きながら、僕は死にたくない・死にたくない・死にたくないと思いつづけている。少なくともその小説を無事に書きあげるまでは絶対に死にたくない。この小説を完成しないまま途中で放り出して死んでしまうことを思うと、僕は涙が出るくらい悔しい。(中略)

 朝目を覚ますと、まずキッチンに行ってやかんに水を入れ、電気ヒーターのスイッチをオンにする。コーヒーを作るためだ。そして湯が沸くのを待ちながら僕はこう祈る。「お願いだから僕をもう少し生かしておいてください。僕にはもう少し時間が必要なのです」と。

これは村上春樹が『ノルウェイの森』を書いている最中の心境を述べたものです。


この文章を読んでまず思うのは、春樹が悩みに悩んで物語をいじり回しながら七転八倒して書いているという感じがまったくないことです。そこには物語を作り出す人というよりも、どこかからか湧き出してくる、ないしは舞い降りてくる物語の「受取手」として、それを原稿用紙に必死に書きとめる人のイメージしか認められません。

このあたりが村上春樹の尋常ではないところです。

物語は自然とむこうから春樹の手元にやってくる。春樹はそれが尽きるまで一言も取り逃さず書き記すことに没頭する。そうした「受取手」を恐怖させるのは、物語が尽きるまでに自分が「死んでしまう」ということなのです。『ノルウェイの森』は900枚にも及ぶ長編になったわけですが、これは「書こう」として書ける長さではないように思えるのです。つまり春樹の長編小説の物語は書かれることを期待して彼を訪れて来る。すごい作家だという他に表現の仕方をボクは思いつきません。