![]() 「言葉」と「セックス」と ─ 春樹の2作品への断章 2007年1月30日 清水良典さんの『村上春樹はくせになる』という本の内容に関しては今までにも触れたことがありますが、『世界の終わりとハードボイルド・ワンダーランド』 と『海辺のカフカ』が関連性を持ち合わせているように、春樹の処女作『風の歌を聴け』の発展系というかある種の「総括」「締めくくり」として『ノルウェイ の森』が書かれたという視点は清水氏も指摘されている通りで随分と納得がいく説明だと思えます。 この2つの作品はある意味では村上春樹の基調というか作家としての一番奥深い箇所に触れるような感触を与えてくれます。 清水氏も言われていることですが、この2作品での共通項は「言葉」と「セックス」です。つまりこうした「言葉」と「セックス」を他者の魂とのコミュニケー ションだという風に取り扱えば、この2つの作品に共通に見られる特徴は「言葉」の不在であり、不毛な「セックス」という問題に収斂されて行くのかもしれません。 「言葉」に関して述べるならば、『風の歌を聴け』の第一文つまり「完璧な文章などといったものは存在しない。完璧な絶望が存在しないようにね」という春樹が彼 の作品のまさにはじまりで語ったことが、村上春樹の人ないしは作家としての核心に触れた発言だと理解できるでしょう。「完璧な文章」とは、もし「文章」という表現を「言葉」という表現に置き換えることが許されるならば、この作家は小説家としての第一歩で、自分には他者に通じる完璧な「言葉」を持ち合わせていないこと、つまり他者とのコミュニケーションにいかに苦痛を感じているか、ということを率直に述べているわけです。 しかしこの小説冒頭の一文の後半つまり「完璧な絶望が存在しないようにね」と続くことによって、春樹はこの他者とのコミュニケーションのありかたに苦痛を感じつつも、彼はそのことに完璧な、つまりどこにも出口のないような「絶望感」は感じていないとも宣言しているのです。 つまり清水氏が言うように「言葉探し」という宿命が村上春樹には最初から付与されていることになります。清水氏が『ノルウェイの森』での直子のはっきりした病名が明言されていないことについて、これは「言葉探し」病と指摘していることは、ついボクが短絡的に直子と彼女の分身とも呼べる「直子たち」は精神分裂病の兆候を示しているのだと表層的な見方をしてしまいがちだったことよりも、はるかに違ったより深い次元への展開の可能性を暗示しています。 そして「セックス」、この行為を他者と肉体的に結びつくことによって、他者との間の壁を越えて結び合う行為と捕らえるならば、『ノルウェイの森』が性描写に溢れていることは、なんらこの小説が卑猥な官能小説ではないことを物語るものでしょう。 つまり「言葉」そして「セックス」は両者とも自分の外にある「あちらの世界」へと導いてくれるものであるのですが、「僕」も「直子たち」もそしてキズキもレイコさんも「こちらの世界」に留まってしまい行き場を失った魂の姿を赤裸々に示していると考えても良いでしょう。 これは共著で出版した『不安のア・ラ・カルト』という本に収められているボクの拙い論考なのですが、なぜ『ノルウェイの森』の最後でレイコさんと「僕」が性交渉を持つのか、という一見不必要な出来事に思えることは次のように説明出来るのではないでしょうか。つまり「僕」が性交渉をした相手はレイコさんじゃないのだと。直子の服をまとったレイコさんとは「直子」そのものであり、つまりこの小説の締めくくりは「こちらの世界」から「僕」が永遠に抜け出すことが出来ないという宿命を語っているように思えます。 最後に緑に電話する「僕」に対して緑が「あなたはどこにいるの?」と訊きますが、「あちらの世界」で暮らす緑にとっては、「僕」がとんでもない世界に迷い込んだことを直感的に感じ取ったから自然と緑の口から出た言葉だともとれます。 ただ清水氏はこの直子のいる場所を「こちらの世界」、緑のいる場所を「あちらの世界」という枠組みに整理されていますが、この「こちらの世界」とは現実の中に存在しながらも、普通の人々には辿り着けないある種の「異界」という捉え方をボクはしますけどね。。。 つまり単純化してしまうと、現実の世界に並行するように存在する「異界」、つまりは日常という草原のなかにポツリと口をあけて待っている「野井戸」なのではないのかという風にボクには思えます。 |