『村上春樹の隣には三島由紀夫がいつもいる。』 その1(2006年7月7日) ![]() 以前から気にはなっていた評論に『村上春樹の隣には三島由紀夫がいつもいる。』 (佐藤幹夫著、PHP新書)を手にしてあれこれ読んでいます。村上春樹は 日本文学はほとんど読まずアメリカの小説家、とりわけフィッツジェラルドの影響が大きいことは自身も語り、周囲も認めていることなのですが、佐藤幹夫氏は 太宰や三島の影響が大きく、「日本文学はほとんど読まなかった」という村上春樹の発言を疑ってかかることから、この本は始まっています。 村上春樹の最初の小説『風の歌を聴け』の冒頭の言葉、 「完璧な文章などといったものは存在しない。完璧な絶望が存在しないようにね」 僕が大学生のころ偶然知り合ったある作家は僕に向かってそう言った。 を 佐藤幹夫氏は「この「ある作家」のいってることは「完璧な文章を書きたければ、完璧な絶望をしろ」です。あるいはその逆。死ぬほど深く傷つけ。のた打ちま われ。地べたを這ってでもそれに耐えろ。それができれば完璧な文章が書けるーそれが、この一行目で言われていることです。」 と述べていますが、果たしてこうした反語として読むことの信憑性はあるのでしょうか? ボクには「地べたを這ってでも、完璧な文章を書くこと」に村上春樹が惹かれたとはどうしても思えないですね。村上春樹の基本姿勢はデタッチメント。常に周囲から一定の距離を置いていることにあるように思えます。 この冒頭の文章はそんな姿勢をとろうとする助走でしょ?つまり春樹は最初から完璧な文章を書くつもりはないと宣言していると読めばそれで十分なのでは? しかし佐藤氏は「村上氏は「完璧な文章と完璧な絶望」を太宰治と三島由紀夫から学んだのです」と結論づけるわけです。 それは架空の作家、デレク・ハートフィールドに佐藤幹夫氏は三島由紀夫と太宰治の姿が見えるからということのようですが、この佐藤氏の根本的な過ちはすべてを日本の作家の範囲内で説明し尽くそうとする無理から来ています。 この冒頭の書き出しはフィッツジェラルドの『グレートギャッツビー』の書き出しにより似ている感じがしてなりません。佐藤氏は英語は読めないみたいですね(違っていたらごめんなさい)。それゆえすべて日本の知っている作家に話を持って行こうとするのは無理がありすぎるのでは? その2(2006年7月8日) 『ノルウェイの森』についての佐藤幹夫氏の論考には興味深いところがあります。まず主人公の「僕」の唯一の親友であったキズキの死に際して「死は生の対極 としてではなく、その一部として存在している。」と語ったことを受け、この小説の構造と「直子」について述べていることは秀逸な指摘です。佐藤氏は次のよ うに述べています。 次に思い起こさなくてはならなないことは、冒頭、20年後の「僕」の回想から物語が始まっているというこの作品の 書き出し部分です。飛行機のなかで「ノルウェイの森」を耳にし、突然激しい混乱に襲われる、そして回想が始まると書き出されているのですが、つまりこの物 語は、直子の死という事実を、語り手である「僕」はあらかじめ知っているのです。知っているのですが、知らないこととして物語が語られていく、という二重 の「目」が、この作品には最初から存在しているということです。・・・・・「過去をふりかえる僕」と「現在を生きる僕」によって、死者の回想が現在のこと として語られていくという物語構造。すでに死者となった人間を、現在を生きる「僕」によって語らせるという微妙に自己矛盾的な物語構造。 この構造を佐藤氏は「死は生の対極としてではなく、その一部として存在している。」と語った「僕」ないしは村上春樹の「小説の方法」でもあると述べています。 そ して佐藤氏は「くりかえしますが、阿美寮の直子は、すでに死者である「非在」としての直子が、リアリズムで描かれた存在です。」 いわゆる直子非在説で す。 このあたりの佐藤氏の論の展開は確かに説得力があります。そしてボクが書いた稚拙な本では、最後に「僕」は死者の世界「異界」へと飲み込まれたので はと結論づけているのですが、そうすると、もう「僕」も死んでしまっている、もっと正確に言うと、「僕」の中の何かが死んだままの状態で生き延びているー つまり「死は生の対極ではなく、その一部として存在する」という言葉がこの『ノルウェイの森』の鍵を握っていることになるのかもしれません。 た だひとつ佐藤氏の指摘で刺激的ではあるけれど気になるのは、直子と「僕」が四谷から駒込まで歩いた道順が三島由紀夫のイメージと重なると指摘した点です。 これが佐藤氏のセールスポイントであり、着眼点であることは非常に興味深いのだけれど、村上春樹の小説で三島由紀夫の名前が出てくるのは唯一『羊をめぐる 冒険』の中で「僕」と「誰とでも寝ちゃう女の子」がICUの学食のテレビに自決する三島の姿を目にする場面だけです。そしてそのテレビは画像は映っている のだけれど音声が出ないのです。 この場面をどう解釈するのか? 佐藤氏は書いてるのかなぁ。。。。もう少し詳しく読んでみますね。 |